津山城とは

津山城

津山城とは?

城の歴史の最初は、嘉吉年間(1441~1444)に美作国守護となった山名教清が一族の山名忠政に命じて築かせた鶴山城です。

この忠政という人物、詳細はわかっていませんが美作国の城の歴史を語る際にはそこかしこに登場する人物であります。
他の美作国の主要な城はこの後歴史をつないでいくのですが、鶴山城については応仁の乱で山名氏の勢力が衰えると自ずと一度は廃城となったようです。
戦国時代も周辺の神楽尾城など山並みの端にある城はその後も使われて名前がたびたびでてくるものですが、鶴山城についてはそういった部分がありません。

あまりに平地部に目立つ城でもあったので防衛上使いにくいと思われたのかもしれませんね。
この旧鶴山城に目をつけたのが森忠政(1570~1634)でした。

関ケ原合戦で東軍についたものの直前に金山7万石から信州川中島13万7千石と加増されていたため加増がなかった忠政ですが、先に備前・美作・備中の一部を領していた小早川秀秋が1602(慶長7)年に亡くなると、1603(慶長8)年その遺領のうち美作国一国18万7千石を与えられ国持ち大名となります。
忠政入国の際は、それを阻もうと宇喜多・小早川の旧臣を中心とした大規模な一揆が発生。
忠政は調略を中心とした一揆勢の内部崩壊を図って入国とその鎮圧に成功しています。当初、居城は院庄に築くことになり普請奉行を重臣・井戸宇右衛門が務めていました。

この城地選定においては忠政と井戸の間で意見の分かれるところであって、この一件でもともと不仲であった両者の亀裂はついに決定的になったのです。

5月、忠政は名古屋山三郎を使って普請現場で井戸を暗殺。井戸の二人の弟にも刺客を放って殺害。
この事件で院庄築城は中止され、その結果新たな城地に定められたのがこの旧鶴山城だったのです。
忠政はそれまでの「鶴山」を「津山」と改めました。

城は約13年の歳月をかけて1616(慶長21)年に完成をみます。

城は津山盆地の中心部・鶴山全体を城地とした梯郭式の平山城で、東の宮川・南の吉井川・西の藺田川を天然の外堀としその内側に城下町を築いています。
外郭を含めると築かれた櫓はなんと77基。
これは大大名の居城であった広島城の76基、姫路城の61基を上回る大規模にして重厚な備えでした。

本丸には4重5層地下1階の天守閣があって、これは明治期に取り壊されるまで津山の街にそびえ立っていました。
ちなみにこの天守閣は小倉城を模したものと言われていますがこれには逸話があって、忠政がその天守閣を確認するため家臣を密かに小倉に派遣したところ、その家臣が小倉藩に発見されてしまったというものです。
捕らわれた家臣が事情を説明すると、藩主・細川忠興はそれを咎めず逆に城内に招き入れ一行に好きなだけ調査させると共に図面まで渡して帰したそうです。
細川家と森家はかつて織田信長に仕えていた時からの朋輩。共に信長のそば近くに仕える人物を出しているところも共通点。
どこか忠興にしても参考にされることに誇らしい気持ちもあったのではないでしょうか。山全体に石垣を巡らしその総体高さは全国一と言われ、そこに最大規模の櫓を備えていた津山城。
またその縄張りは行き止まりや一度は下らなければいけない仕掛けを設けるなど、戦国末期の城郭建築の粋を集めたもの。
まさに実戦を想定した厳重な備えの近世城郭となっております。

森家は1603年の入封から1697年まで5代94年に渡って津山城の主でしたが、4代長成が死去した際に跡継ぎがなく末期養子の形で2代長継の12男で家臣の関家に養子に入っていた衆利(あつとし)を森姓に戻して後継としました。
急遽跡を継ぐこととなった衆利は将軍拝謁のため津山から江戸に向かいますが、その道中の桑名において幕政を、当時発令されていた「生類憐みの令」を批判したという科で改易されることになってしまいました。
津山にはその後、越前松平家の宣富が入り、以降9代173年に渡って幕末まで代々藩主を務めています。

幕末までほとんどの建築物が健在であった津山城ですが、1874(明治7)年から翌1875(明治8)年にかけて四脚門(中山神社に移設)を除くすべての建築物が破却されています。
荒れていた城地で1890(明治23)年に石垣の崩落事故が起こった事をきっかけにして保存運動が起き、1900(明治33)年城跡は町有化されて保存活動がスタートすることになります。今に見る桜の木々が植えられ始めたのはこの後からです。

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築城者・森忠政は多くの戦国武将の中でも際立った一家に育ったといってよいでしょう。かつて赤穂城のところで森家の歴史については多少触れていますが、今回はこの忠政に絞って見てみます。
忠政は織田信長の重臣の一人であった森可成(1523~1570)の六男。

美濃国笠松の出身である可成は源義家の七男・義隆(森冠者)を始祖とする家系で、その姓「森」は、義隆が所領としていた相模国毛利庄(現厚木市毛利台近辺)の「もうり」が転じて「もり」となったものという説があります。
その点では後の大江姓毛利氏、すなわち戦国時代に中国を制圧した大大名・毛利氏と時代は違えどそのスタートは同じ場所と言えます。
六男である忠政は普通の世であれば家督を継ぐことはなく、別家を立てるか仏門に入るかという運命であったでしょう。

この森家は戦国と、それ以上に織田信長という人物と、その中でどっぷり生きていった家といえます。
忠政の父・可成は1570(元亀元)年、近江国宇佐山城にて南下して摂津方面にあった信長の背後を衝くべく動いた浅井・朝倉連合軍を食い止めようと出撃。信長の弟・信治と共に討ち死にを遂げます。
長男・可隆(1552~1570)は同じ年の信長の朝倉攻めにおける天筒山城の攻城戦で初陣を果たして一番乗りの功名を飾っていましたが、戦死していました。
家督は次男・長可(1558~1584)が継ぎ、彼は後に信長・信忠配下の勇将として知られ「鬼武蔵」と呼ばれています。
美濃国金山城主から一時信濃国北四郡の領主となりましたが、小牧・長久手の戦いで舅・池田恒興と共に三河中入り別動隊の指揮官の一人となって長久手で奮戦するも戦死。
三男・成利(蘭丸:1565~1582)、四男・長隆(坊丸:1566~1582)、五男・長氏(力丸:1567~1582)の三人の兄は信長の小姓として本能寺の変で戦死。長可が長久手で戦死した時、森家で後継となれる人物はすでに忠政一人だけになっていたのです。
この忠政とて、実は本能寺の変の前に上の三人の兄達と同じく信長の小姓として一時近侍していました。

しかし、1582(天正10)年3月近習仲間である梁田河内守を扇子で叩いたところを見咎められ、母のもとに返されています。
6月の本能寺の変の際は母と共に安土城にあって難を逃れ、城を抜けて甲賀の伴惟安の助けで匿われた後に、美濃国の旧領を確保した長可の迎えを受けて戻る事ができました。
もしそのまま小姓を続けていたら兄達と共に本能寺で戦死していたことでしょう。
忠政が家督を継いだ際、この時の恩を忘れなかった彼は、逃亡を助けてくれた伴惟安や甲賀衆を協力者ではなく正式に家臣に迎えております。
なお、伴氏一族は忠政に重用され、美作国入国後の検地の総奉行を任されたのは伴直次という人物でした。

実は忠政の家督相続に反対していたと思われる人物がいました。
それは長久手で戦死した兄の長可でした。
彼は戦前、羽柴秀吉に対し遺言状を提出していたのですが、その文中で忠政への相続を「あとつぎ候事、いやにて候」と書き綴っています。
本能寺の変の前の小姓間での喧嘩も含め、12歳年上の長可はどこか忠政に危惧する部分があったのでしょう。
所領・金山城は然るべき武将に任せ、忠政は秀吉のところで奉公させてほしいと書いているのです。

しかしながら、信長の時代から功績があり、秀吉にとってもかつては同輩であった家柄の者、しかも小牧・長久手では秀吉の一軍の将として働いた森家の所領を没収するわけにもいかず、あえて遺言を無視して忠政を後継として金山7万石を安堵したのです。
ただ、長可の遺言のこと、忠政自身が15歳の若年であったこともあって、家老の各務元正と林為忠を後見として任命し家中のとりまとめをさせたのです。

忠政には所領の件で望みがありました。
それは、兄・長可が一時ではあれ支配していた信濃国北四郡。10万石を超える所領です。彼の望みが叶ったのは秀吉が死去し、関ケ原の東西対決が迫っていた1600(慶長5)年3月のことです。
どういった経緯なのかはわかりませんが、徳川家康が中心となり増田長盛・前田玄以・長束正家らの処理を経て忠政の信濃国川中島13万7千余石への転封が実施されています。忠政は川中島に入ると、かつて本能寺の変の後に長可が美濃国へ撤退を図った際に長可を裏切って一揆勢に加担した高坂昌元(武田四名臣の一人・高坂弾正昌信の次男:この後、上杉景勝に下るが北条氏に内通した疑いで真田昌幸に誅殺される)の一族を残らず探し出し、18年前の裏切りの罪を問うて処刑したと伝わります。
秀吉死後の家康と石田三成の対立の中で忠政は終始家康を支持し、両者が伏見でにらみ合いに発展した際は家康の屋敷の護衛に馳せ参じるなどして賞されています。
忠政から見れば家康は兄・長可の仇ではありますが、同じ境遇の池田輝政(父・恒興、兄・之助は長久手で戦死:彼の場合、後妻が家康の娘であるという事情もあるが)と同じく、家康に早い段階から接近していました。
この川中島への移封は結果的には後々の事を考えた家康の布石の一つと見えなくもありません。
関ケ原では中山道を進んだ徳川秀忠の軍に形としては加わっており、真田勢の北進に備えていたため戦場には出ていません。

関ケ原直後の論功行賞では選に洩れた忠政でしたが、先にも述べた通り小早川秀秋死去後に加増転封、美作国の国持ち大名となったのです。

忠政は川中島に移った時もそうでしたが美作入りした時も、地元で一揆を起こしたり企てたものには極めて過酷な姿勢を取り続けました。
また、家中でも先の井戸宇右衛門の件の際は各務と並ぶ重臣であった林為忠ら林一族が忠政の振る舞いに憤激して出奔。
いったんは各務元正の子・元峯を筆頭家老に据えて乗り切りを図りますがこんどはこの元峯が喧嘩の末に家老・小沢彦八を殺害。
仲裁に入った家老・細野左兵衛をも元峯の家臣によって斬殺されるという事態が発生。
美作に入ってからわずか5年ほどの間に3人の重臣が非業の死を遂げ、筆頭家老は一門挙げて逃亡。
世が世なら家中不行き届きで改易させられてもおかしくない非常事態です。

江戸初期は戦国の気風がまだ世の中にあふれており、主君と家臣の間もまだ殺伐さが残っていたのでしょう。
家臣をまとめきれない忠政本人の器量や領内の農民などに対する苛烈さなどに見られる激しい気性をひょっとしたら兄である長可は間近で見ていて見抜いていたのかもしれませんね。

しかし、家中は大塚丹後守の働きで騒動につながるような展開にはならず、彼が1612(慶長17)年に死去した後は、忠政が幕府に願い出てまで森家に家臣として復帰してもらった叔父・可政(1560~1623:独立した旗本として幕府に仕えていた)が執政職となって家中を引き締め、この後は家中に混乱らしい混乱は起こらなくなります。
可政を起用して家中がまとまるようになると、忠政が率いる津山藩は急速にその地盤を固めていきます。
大坂冬・夏の両陣にも参陣し、特に夏の陣では可政の子・可春が初陣の身でありながら敵将を討ち取るなど活躍しています。

また、忠政は旧領である美濃や、縁のある尾張、上方の京や大坂からも人員を招致して城下の振興・発展に取り組み、牛馬市の創設や吉井川の堤防工事と並行して河川水路と陸路の整備、それに伴う宿場町の整備など、ありとあらゆる経済振興政策を次々と打ち出して領内を豊かにするべく邁進していきました。
さすがに彼一代の間にすべてを完成させることはできませんでしたが、その政策は2代藩主・長継(1610~1698)に引き継がれていきます。
忠政には嫡男・忠広(1604~1633)がおりましたが、忠政に先立つこと3年、1633(寛永10)年に亡くなっております。

そこで1634(寛永11)年、忠政は関成次と三女の間の子・関家継を養子に迎えて長継と名乗らせて自身の後継者としました。
この7月、京にあった忠政は65歳で急死します。
父や「有名過ぎる」兄達の陰に隠れがちですがその急逝を経験、自身も白刃を渡る思いの逃亡から大名の跡継ぎとなって戦国末期を乗り切り、最後の戦・大坂の陣から戦のない世の中の到来まで見届けた忠政は、今は京都の大徳寺三玄院に眠っています。

津山城を訪れる際は、そんな忠政の一生を想いながら登城されるとまた違った味があるのではないでしょうか。